実施済みの研究会

第一回 新京都学派の「言葉と教育」研究会の概要

 

開催日:2018年4月22日(日)

 

場所:京都大学吉田泉殿

(入り口は西側でした)

 

参加人数:午前17人、午後8人

 

タイムテーブル:

① 10:00~12:00

  • 谷川嘉浩「ヒューマン・ネイチャー・ライティング:新京都学派は情念を言語化する」

(お昼休憩)

② 13:00~15:00

  • 高田正哉「民主主義のために知識人は何をすべきか?:公共圏のゆらぎから立ち上がるために」

 

発表概要:

「ヒューマン・ネイチャー・ライティング」(谷川)

 パブリック・スピーキングという考え方が西洋にはある。自己の経験や意見を、適切に言語化し、他者に伝え、説得することを目的としている。公共領域にひとかどの市民として立つためのアートであり、「ちゃんとした」政治参加をするための教育である。それをどう呼ぶかは別にして、類似の試みは、西洋に於いて、伝統的に存在していた。

 とはいえ、日本の知的営みを振り返ると、類似する思想/実践を展開した人びとがいることに気づく。ここで念頭に置いているのは、戦後、人文研など京都を中心に活動した知識人たちである(新京都学派)。本発表は、鶴見俊輔を例に、適切な言語化をめぐる議論を探索するとともに、それを位置づけるものである。その際、政治学/社会心理学の古典を補助線にする。

 

Keywords:人間本性、ネイチャー・ライティング、パブリック・スピーキング、生活記録、(反)知性主義

 

 

「民主主義のために知識人は何をすべきか?」(高田)

 21世紀に入り、世界の人文社会科学は危機を迎えている。その危機は、世界的な右傾化、ポピュリズムの台頭、経済中心主義など様々な側面から語られている。その中で、知識人のあり方もまた問われている。本研究会では、知識人のあり方として、2000年代中盤にかけて提起された「有機的公共知識人」(organic public intellectuials)という考え方から、日本の知識人のあり方を再検討していく。だが、そもそも有機的公共知識人は立ち上げる(boost)する類のものなのだろうか?

  私はその問いを否と考える。日本にも、たしかに有機的公共知識人と呼べる存在は存在していた。その存在こそが、新京都学派である。新京都学派の思想を再検討することで、日本において有機的公共知識人の存在を、再び立ち上げる(reboost)していく道筋を、本発表では示していきたい。

 

Keywords:有機的公共知識人、ローカル、アイデンティティ、言語

 

 

発表者:

谷川嘉浩 京都大学人間・環境学研究科博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC2) researchmap Twitter: @mircea_morning

 

高田正哉 上田女子短期大学講師 researchmap Twitter: @Yatu_Walker

第一回研究会を終えて

 

 偉い人は言いました、「二兎を追う者は一兎をも得ず」と。私の発表はごった煮的であり、そこに追いかけていた兎がいるのかどうか、忘れかけていたくらいでした。

 しかしながら、参加者のみなさんの粘り強い質問によって、いくつかの論点が明確化されるとともに、重要な宿題をいただいた感じがします。

 また、谷川/高田による研究会の方針のたたき台となるようなものを提出するという「大きな話」が具体的なヴィジョンに変えることができたのは、鋭い指摘、思いもしない視点、絶妙な整理、素朴な質問など、参加者のみなさんとの会話のおかげでした。

 

 改善すべきだと私個人が深く感じたのは、「わかりやすさ」でした。もっとわかりやすいように提示しなければ、少なくとも、意欲ある学部生がついていきたいと思えるようなスタイルで書かなければと思いました。

 そう感じたのは、ありがたいことに、この場に来てくださった方々が様々なバックグラウンドを持っていたからです。

 教育系NPOの学生、タウン誌の編集者、同人活動をする学生、教育系大学の教員、観光学系の教員、哲学の院生、教育学の院生、一般の方など非常に属性の多様な現場でした。全ての方とお話できなかったのが惜しかったです。

 

 

 研究会では、いくつも重要な論点が出ました。その一つが、公的/私的ということをどのように考えるのかというものです。

 これをいくつかの観点から整理しておきたいと思います。旧来の、私たちが批判していこうとする発想は以下のような対が前提にされているはずです。

 

公的言説―インテリ―知性主義―お上品―理論信仰―マイノリティ

私的情念――大衆―反知性主義―不適切―実感信仰―マジョリティ

 

他にも色々な対が出てきましたが、ひとまずはこんなところでしょうか。

 私たちは、こうした素朴な二項対立のどちらにも加担せずに、あいだでなんとかやりくりしたいという見解で一致しました。とはいえ、コミュニティ作りのために、兎にも角にも「動員」することには、違和感を示しました。単なる素朴なコミュニティ参加論やコミュニタリアニズムを反復するのでない方向を進んでみたい。

 その代案につけられた名前が、「ヒューマン・ネイチャー・ライティング」「実感を超えていく実感主義」(谷川)であり、「ローカリティ」「有機的公共知識人」(高田)でした。

 トランプ現象のような、現代の社会現象を念頭に置きながらも(マクロな視点)、私たちは、「情念」に代表される人間の非合理性を、「言葉」にしていくという教育的な含意を下から組み立てていくツールを作るべきなのかもしれません(ミクロな視点)。

 

 

 私たちが事前に用意した視点だけでなく、会話をする中で、議論以前のプライベートな「信頼関係」や、外部には不可解に思えるものの「翻訳(者)」というキーワードが出たのがとても印象的でした。それを提示したのは自分自身なのですが、「誰か」に具体的な問いを投げられたからこそ出てきたことです。

 発表メンバーの須永哲思からは、『山びこ学校』が商業出版されたときに落ちたコメントや添削に関する話がありました。それは、何が公的に流通すべきかという「言説の資源」の壁を示しているとともに、(広い意味での)教育がうまく働くのに必要だったローカルな文脈や関係性のことを思い出させてくれるものでした。

 

 公的な言説に乗らない情念をやりくり(情念のマネジメント)するときの一つのポイントが、「経験を書く」ということでした。ここで、私たちの研究会の名前、「言葉と教育」が登場するわけです。高田発表では、その点を受けて、「知識人とは何か」「知識人と呼んでいいのか」「探求の技法」「ビジネス書との距離感」「外化/記録/共有」「サークル/共同研究」「パブリック・スピーキング」など様々な視点が話題に登りました。

 ここでは、C.W.ミルズの「知的クラフツマンシップ論」のIBMカード論に加えて、カルチュラル・スタディーズ、そして、読書猿さんの『アイデア大全』が話題になりました。昔から現代まで、アメリカや日本からイギリスまで、縦横無尽の話題展開だったことが印象的です。

 

 

 私がとりわけ興味深く感じたのは、「反省的であることのしんどさ・面倒くささ」という論点でした。発表メンバーである真鍋公希の指摘でした。しばしば、研究者は問いをオープンエンドにして研究を終えてしまいます。いや、称揚しさえします(鶴見がそれを好意的に「哲学者の問い」と呼んだように)。

 「私たちは、これを問い直し続けなければ」というわけです。決まった答えを放棄していることでもあるので、これが、無責任や怠慢に映る人もいるでしょう。とはいえ、何かを反省し、問い直し続けることは、答えを出さないことと同じなのでしょうか。私たちが、一方で問いの継続を掲げるとき、他方で何を結論づけているのでしょうか。

 真鍋は、これまでの議論を受けて、いわく言いがたいものを「言葉」にしていく知識人の路線として、1.時代診断的な治療2.哲学者的な問いの継続という2つの系統があるのではないかと整理しました。

 前者は浅薄な評論に陥りかねないのに対して、後者は、悩み続けねばならないことのしんどさ・面倒くささを抱え込んでいます。でも、こうした二者択一を迫られるとき、私たちは一方だけを選んではならないことを知っています。

 恐らく、両者は相互補完的なのでしょう。その都度の暫定解を手にしながら、一方では、「それは間違っているかもしれない」と問いを継続していく。これが基本的な視点であるべきなのでしょう。

 それだけなく、この「しんどさ」の自覚に立ってこそ、新京都学派による知的技法への注目が活きてくるような気がします。技法や道具は、反省性があるかどうかよりも、兎に角うまく機能する(work)ことが重要だからです。

 

 以上は、研究会での会話や発表の要約ではありません。ほんの、ごく一部です。私の関心に従って、私の言葉と視点でまとめられたものです。

 なぜ録音しておかなかったのかと自分を叱りたい気分です……。今後の研究会では、「記録」をしっかり進めたいと思います。

 

 今回はあまり「新京都学派」感がありませんでしたが、次回以降、具体的な話が提出されるはずです。完成しきったものを提示するというより、今回のように会話の中で、共同で布を織り上げるように、私たちの議論を作っていけたらと考えています。

 

2018/4/22

谷川嘉浩